映画:はじまりへの旅

投稿者: | 2017年5月26日

はじまりへの旅』を見てから、内様についての反芻を繰り返していて、あまりまとまった考えが浮かばない。
チョムスキーの扱い、母親の造形、他諸々の描写。
これはひょっとして、全て批判的に受け止めて笑うところが満載の映画だったらどうしようと、そんな風にも考えてしまう。
とにかく、映像で挟めない時間を超えた描写や説明が入った小説版でも出ないかと思っているが、それはそれで鼻について読めないかもしれない。

父親は子供たちに本を与え、その内容やどう感じたかを語らせる。知識や状況に対しての意見、どう考えるのかを徹底して求めていく。
それにしても、子供たちにはポルポトをアイコンとして飾る者、トロツキストではなくマオイストだと主張する者、なんやかんやで共産主義が好きだ。
父親はむしろアナキストだろうけれど、彼らがなんとなく共産主義の先人たちに傾倒していくことを牽制したり止めたりはしない。
この描写が、要は、若いうちはこういう傾向になるから放っておこうという父親の余裕を表している様にも感じられ、人と知恵、歴史をどう認識するかを考えた時に、教養や余裕というのは必要だと感じさせられ、法の遵守のしかたについて個人的に運用する父親の生活アナキズムが、森の外の消費社会、ましてやあからさまに富裕な母方の家族に違法性を指摘された時には、何の申しひらきもできないことになる。
申しひらきできない事柄の扱いも、わかりやすく描かれている。過酷な訓練による怪我であったり、悪ふざけとも取れる芝居掛かった窃盗であったりと、それは生活の中の独自のルールにこだわり過ぎた瞬間のできごとだった。

父には秘密のまま、母の協力でアメリカの名門大学に軒並み合格した長兄は、「本で知ったことしか知らない」と父にぶちまける。確かに知識はあり、体も鍛えあげられているが、家族以外の人と接していないせいで、家族以外の他人と上手く接することができない様も、面白おかしく描写されていた。

どう暮らすか、大人は選択できるが子供は家族を選べない。
父親にとって、家族に対して発揮してきた正しさを変え、次の選択に至る決意。母親が居ないまま発揮していた父親の息苦しさからの方向転換。
どちらにせよ、いかに暮らすか。法を遵守する方法や方向性を、自ら決められる社会でなければ自由とは言わないし、選択には責任と結果ががあることを考える映画だった。
そういえば、『カラマーゾフの兄弟』は、まだ読んだことがなかった。読もう。

アナキズムと聞くと即座に暴力や共産主義を連想する皆さん向け。

訳は何種類もあるけれど、なんとなく米川。


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