読書:悟らなくたって、いいじゃないか

投稿者: | 2017年1月24日

新書なんだし、ささっと読めよってもんなんだけれど、浮気や寄り道を繰り返しながらだらだら読んで昨夜ようやく読了。
スピと”マインドフルネス”(” “の仕草付き)から感じられる薄っぺらさについて、仏教の視点から、かなり明確な解説をいただいた。ありがたし。

カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』でもないけれど、こちとら生まれた時から責任と鬼火に満ちた世界そのものの田舎で不思議に囲まれて暮らしているので、いわゆるスピリチュアルな喜びに満ちている人を見ると、一体何にアクセスして喜んでるの?ちゃんと相手できてるの?と、座りの悪い薄っぺらさを感じていた。これ、たまにそうでもない人が居て、その辺りがまたややこしいところ。
マインドフルネスというキーワードも、それを自分の中で意識するきっかけになったのは、他でもない一昨年の魚川祐司氏の『仏教思想のゼロポイント』だった。
だが、そこで知ったマインドフルネスと、世の中に流布しているマインドフルネスでは、どうもトーンが違う。これも妙に薄っぺらい。自分が意識するのが遅かっただけで、実際には世の中に十分に流布していたキーワードだから、これが人口に膾炙して陳腐化していくという現象かしら。という理解で収まるものでもなく、言うなれば、ただのツールとして理解されているマインドフルネスの薄っぺらさには、とてつもない違和感があった。

この本は序章から、智慧の章、慈悲の章、自由の章と、順を追って仏教の実践の体系から一部を取り出してツール化した「瞑想」を例に、実践し、指導者になっているお坊さんが、現場からのレポートと同時に、仏教の凄みを教えてくれている。
乱暴な言い方をするなら、それが宗教でも信仰でもなくても、仏教という思想体系において、世界を把握する視点の持ち方について、懇切丁寧に解説が試みられている。
その視点は、禅や瞑想の実践でなくても、阿弥陀如来の他力に委ねきることでも理解し得るものの様だ。
さて、とはいえ出家でも修行者でもない僕らには、通常の日常が待っているわけだけれども、それでもこの世界を把握する視点自体が、生きる上では十分に役に立つ。という風に理解できた。

終盤の魚川氏のまとめが、すばらしくきっちり決まっている。

(前略)仏教というのは「世の流れに逆ら」って、通常の「人間的」な「私ー対象」関係の拘束を脱した、智慧のパースペクティブを開くものですが、しかしその帰結は、「人間と縁を切ること」ではないんです。菩提樹の下で「ベクトルのない」智慧の風光を得たゴータマ・ブッダが、躊躇した上で、それでも衆生に対する「ベクトルのある」慈悲の実践へと一歩を踏み出す決断をした。その瞬間に「仏教」ははじまったわけですから。

そして、この本は対談の構成になっているので、プラユキ師がきちんと受けて、着地点に導かれる。
なんともいえない滋味に満ちた本だった。
いや、子どもの頃、お寺がやってる幼稚園に放り込まれて普通に浄土真宗で、自分の好む好まないのレベルで、そういう下地があったことに改めて感謝している。そんな意味では、自分は仏教徒だった。おかげさまだ。

それはさておき、なんでタイトルがみつを風なのか、それも詳らかになるともっといいなぁ。みつをを撲滅したい身として、ぜひ知りたい。
というか、撲滅しなくたっていいじゃないか。に至れよって、しまった!


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