使えるか使えないか

投稿者: | 2017年5月21日

トリビア的な知識があっても、それが精神生活や生き方に何ら役に立っていない例と向き合う羽目に陥っている。
意識が高いあまり、幾度となく落ちる目の鱗や、スピ系における高次存在からの祝福を受ける喜びに満ち溢れて、低次存在から邪魔されなくなるという認識の様なもので、そこには自我しかない筈なのに、都合よく棚にあげてある棚の所在を、おそらく本人も行方不明にしており、何を言おうが、どんな風に話しをしようが、結局かえるの面に小便をひっかけている様なもの。ただいつものお決まりの不愉快なやりとりに至る時間を共有することになる。
傾聴と抜かしながら自我がない。そうであればひたすらに聞ききることもできそうなものだと、こちらとしては常々そう考えるものだが、ただ聞こえてくるものを味わうなんてことは、恐らくはとてつもなく高度な技で、結局は彼の行方不明の自我が何処からか取り出してきた定型的な反応と後出しジャンケンを引っ張り出してきて並べる様に付き合うだけ。こちらにしてみれば時間をかけた分の徒労となる。

スピ系の皆さんなどにおかれては、低次として扱ったものと彼らの関係は、果たしてどの様なものか。
何ら具体性のない高次存在と、おそらくは具体的な低次存在の関係を考えると、そろそろ君らには肉体とか邪魔だから断捨離して金に変えたらいいんじゃないのかという提案が軟口蓋辺りまで出てくる。

なんにつけても、全てが実験と適用の繰り返しと考えていけば、とにかく手数を増やせる様に工夫し、クオリティをあげていくだけという考えに至らないだろうか。
普通、ちょっと立ち止まれば、仮にでも現状のフェイズが把握できるのが大人というものだろうに、わざと迷子になるごっこ遊びはともかく、いちいち記念碑的なものを建立して形を整えたくなったり、誰かに褒められたりしたいとか、幼少期に承認されきらなかったことの補填かと思える様な愛の求め方にどれほどの意味があるのか、つまらないループは勘弁していただきたいところだ。

とはいえ、一度カモったりカモられたりの流れに入ると、なかなか抜け出せないものかもしれないし、トリビア集めることでしか誰かの気を引けないとかいう間違った確信にも、そこを抜け出せる様な体験を提案できないことも事実。ループの原因はこちらにもある。


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