演劇のワークショップをできないものかと考えた

投稿者: | 2017年12月22日

学芸会や国語の音読辺りからほんのり始まり、中学、高校の演劇部で行われることと、演劇の形式が持っている可能性は全くの別次元のもので、日本ではあまりそのへんがしっかり意識されていない。
演劇は目立ちたがりやの変人や美人がやるものと思われているかもしれないけれど、実際はそうでもない。例えばピーター・ブルックの『なにもない空間』をそんな先入観を持って読めば、書いてあることからそういう心意気を類推することは可能だ。
とはいえ、その類推を手がかりに、何を実践するのかとなると、途端に手がかりを失うのではないだろうか。

個人的な経験としては、1985年からのことになるが、高校演劇が完全に孤島の様なひとつのジャンルを形成していることを知り、他にも様々なジャンルの演劇や方向性を持つ劇団があることを見て、自分自身も戯曲を書き、演出をする様になった。
それから確実に時間は過ぎているが、今も一般に行われている演劇を作る側への誘導に、演劇に参加、継続するための視野を広げるという目的のものがあまり見られない様に思う。
確実に、まとまった訓練を始めて間もない時点で、ある程度の様式に従うこと、自分に演劇が「向いている」「向いていない」と感じさせる手続きが非常に多く存在していて、そうして演劇は、演劇が発生する最低限の瞬間を理解されないまま、選ばれた人々の特殊な名人芸を賞賛し、鑑賞するだけのものとして敬遠され続けている。
学芸会などに見られる、ひとつの役割を大勢の児童が演じるヤケクソな全員活躍の解決策と、この無理解は地続きで、これは、他のジャンルの芸術を理解しようとする態度にもつながっていく。

演劇が発生する瞬間についての模索は、今やっている血パンダで実行はしているものの、どうしても毎度上演を目指す台本との格闘や、公演ごとにやってみたいことを模索することが中心になってしまう。
そこで、血パンダの活動で改めて発見できたことも反映しながら、単純に基礎をやる機会を作って、演劇にはイメージされているほど向き不向きはないし、みんな実際に生まれた時からその体に入っている筈なので、「とりあえず演劇を発生させてみないか」という訓練方法について、まとめられないかという考えに至った。

演劇経験や、自分で考えている向き不向きは関係無い口語劇ワークショップの骨子を考えてみようと思う。以下の骨子に従って、とりあえず最初の資料をまとめてみることにする。
思いついて一晩。大枠はこうだ。
1. 声を出す、体を動かす
2. 会話
3. 独り言
4. 物語を試みるその1
5. 物語を試みるその2
需要はあるだろうか。とりあえず、全5回各回90分。最低催行人数4人。
そのまま試演会の作品作りに突入するとしたら、稽古時間を改めて設定って感じで模索してみたい。


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