子供らが脱線していくのが好きで、どんどん気が変わっていく様子に付き合っていくと、子供の方でも折り合いがついていくというか、脱線の加減にもいろいろとバリエーションが出てくるものの、そうこうしているうちに脱線自体が尽きてしまう。
大人としては、シュルレアリズムもダダも知っているし、不条理なものの摂取量はこちらが子供よりも圧倒的に上なわけで、手数だけで考えれば子供よりも大人の方が確実に多い。子供の脱線に乗っかりつつ、最終的に子供の方から「そういうことでもないから、合流しよう」という反応をもらうための提案なら、いくらでもできてしまう。
子供の発想が凄いとかいう大人は、即座にその思考停止の蔓延につながる言葉を捨てて、子供の発達の中で起こっていることを逃さない目を持って、それも自分の糧にしていく意識にしていくのはどうだろうか。
保育園が未経験の子供が保育園などで集団で過ごすようになると、また変化が生じてくるのだが、思えばうちは、娘も息子もかなり早いうちから保育園に行って揉まれていたので、加減は子供によっても相当に違うものとは思う。
とはいえ、脱線とスケジュールの按配というのは、なかなか難しい話なのかもしれない。
しかし、下地にできそうなパターンの様なものが発見できれば、あとはちょっと引っ張るだけだったりするのではあるまいかと、これはあくまで限られた経験上のことではあるものの、そんなふうに考えている。
そんなふうに、時間制限の中での目標設定と脱線について考えながら、少し前から、とある場所の子供たちと演劇を作っている。
今は、子供たちと一緒に潜水艦を操縦するためのパネルのブラッシュアップをどうするかを考えている。
なにせ、この操作パネルの制作は宿題なのだ。光らせたりとかして持っていったら、またややこしくなりそうなので、さりげなく大人のクオリティを感じさせるには、どうしたらいいのか。
土俵に乗り、勝ちにいかず、負けもしない戦いの力加減を求めていくべく、思案している。